Angels
2023年11月2日(木) - 11月26日(日) Nov.1 - 26 , 2023
EUKARYOTE
https://eukaryote.jp/exhibition/keisuke_katsuki_solo_ex_2023/
photo by Kazuto Ishikawa
[1. 技術:カメラからAI へ:演算と最適化による" 眼" からの逸脱]
スマートフォンの普及によって大きな箱であったカメラは小型化され、画像技術は写真というフレームを更新したと言えるだろう。スマートフォンを持っている誰しもが写真を撮った後に、編集アプリケーションによって不要な被写体を消し、エフェクトを付与し( 過去に存在した写真表現やフィルムのエミュレーションである)、明るさを変え、自分好みの画像を作り出すことができる。これはインスタグラムをはじめとしたSNS サービスの影響によるところが大きいが、スマートフォンやデジタルカメラのフィルターとして事前にアプリケーションに組み込まれて いるものも多く、近年はより顕著に一般化されている。
私たちは喜びを(あるいは悲しみを)画像によって他者と共有(表現)できる。表現行為によって現実を異化させる、映える画像にはLike が付く。素晴らしいとされるイメージが共感を呼び、多くの人たち に投稿をリーチすることができる。誰でも画像で表現できる、絵を描けなくても写真は撮ることができ、写真 から画像を作れる。スマートフォンの普及によって写真は画像に成ったのである。写真≒画像の構図によってイメージはより大衆化された娯楽へと様変わりした。それはストレート・フォトグラフィからピクトリアリズ ムへの回帰でありながら、現代のポストトゥルース時代の表現に準じてもいる。
さらに画像はAIの登場によって、編集加工から生成へとそのプロセスを変化させた。そもそも前述してきた画像とは見た人間を快さへ導くための画像である。それは実際的にはSNS サービスの閲 覧数を指向しているため、スマートフォンのカメラや、デジタルカメラに備わっているオート機能は、その快い画像を簡単に作るために改良を重ねてきたといえる。フォーカスと露出は自動で調整され、HDR(High Dynamic Range) によって光は常に適切な映り(適切な、とはここでは明快に映っていることを指している) にするため複数の写真を合成する。この画像にとって重要なのは明快さであり、明快な画像を得るために撮影 された数多の不鮮明なミスショットは破棄されてゆく運命にある。
また、画像を表示するディスプレイは人間の目に適切に見えるように最適化された表示板である。RGB の画 素は光を分光した際に見える色であり、これを可視光線と呼ぶが、そもそもこの可視光線とは人間にとって光 が可視、不可視に分類されているということの証左でもある。これは、ニュートンのプリズム分光によって得られた可視光線のスペクトルをもとに、RGB 光源による描画法が適用されている。
AI には上記したような私たちのとって当たり前である' 見る' という入力は存在しない。例えば、diffusionモデルの学習は画像にガウスノイズを加えて段階的に画像を壊していく( 図.1) が、そのプロセスには画素の 位置情報によって画像をスキャンしており、そのパターンの差異から指示対象へのポジティブかネガティブかの判断がなされる。このプロセスを繰り返していくことで、特定の支持対象( キャプション) と画像の結びつ きを学習することができるとされている。このプロセスには" 見る" という行為は含まれず、人間の視覚が作 り出す画像と生成される画像に決定的な違いがあることがわかる。AI の生成する画像には、カメラが撮影した ものを違うプロセスで再構成させるため、時に現実とは異化された画像が生み出されることとなる。( 例えば、 奇形のように腕の多い人間) ただ、この異化されたイレギュラーな画像はアップデートと共に修正できるよう になり、より正しく見える画像が多くなることだろう。近年におけるカメラからAI への移行は、イメージ、画 像もまたヒトの視覚情報へと最適化される想定と同義である。
しかし、現状の画像生成系AIは、' 明快さ' の反対にある' 曖昧さ' を表現する余地を残している。現在は画像として表現しにくいもの(例えば、動きによってしか把握できない一連の動作を指す単語や、定義が曖昧な 事象、視覚的に表現の難しい、あるいは複数の読み取り方ができる物事、等々)は生成できない。データセット(図. 2) に含まれない支持対象や、学習が正しく行われていないものは推察すらできない。また、データセット単体 での関係の読み解きでしか生成が行えないため、文脈を持った関連的かつ、複合的な要素を持つ表現が難しい。 しかしそこに、生成画像特有のメディウムが表出していると言える。断定できないものを生成する場合に、画像の対象イメージは破綻する。破綻したイメージは不可解で奇妙なものである。その奇妙さは現実的ではない 要素を含んでいるために感じるものであり、超自然的で人間の想像力を超越したパターンや規則性が表出して いる。( この表現の中にはシュルレアリスム絵画のように見えるものもある。まさしく超現実である。) これらの学習と生成のプロセスには人間の眼球( 視覚) が想定されておらず、あくまでテキスト対画像とい う既存のイメージの入力を前提にしていることにも関係しているはずだ。カメラからAI への画像出力媒体の移行は、" 眼" からの逸脱の過程である。※ただしこの逸脱は順応への通過点でもある。
図.1 ガウスノイズを段階的に除去しながら画像を生成する拡散モデル( 引用元:https://arxiv.org/pdf/2006.11239.pdf)
図.2 膨大なデータセットを提供する非営利団体「LAION」
[2. 感覚:超自然的ヴィジョンと精神]
" 眼" からの逸脱と言ったが、それでは人間の視覚は文字通り目の前にあるものを正しく認識できるだろうか。ものを見る時、常に別個体による認知のずれがおこる。シュミラクラ現象と呼ばれている、壁のシミが顔に見える等の錯覚はそれが錯覚だとわかっていても恐怖感や違和感を感じさせる。認知のずれは入力の誤認であり、一種のエラーである。一般的に超自然的なヴィジョンとは、こういった事例として整理されている。
虚構を生きることによって生存してきた我々人類にとって神が重要な意味を持っていた( 若しくはまだその 影響下にある) ことは歴史を見ても明らかだ。現実を現実のまま生きることは人間には不可能であり、宗教活 動がなくなることはない。
一例として西洋における神と精神の関わりについて考えたいが、そのためには古代ギリシア哲学まで遡らねばならない。ソクラテス/アリストテレスによって意味づけられたプシュケー(Psyche) とは心、魂のことで あるが、我々が意識する心はこのプシュケーが下敷きになっている。無知の自覚(俗にいう無知の知)は知を メタファーにすることで意識的に自身を顧みることに他ならず、心を精神と身体を自制するシステムとして構 築した。ホメロスの叙事詩の中では神の意思が人々に影響を与え、行動を起こす(=心の働き) ことにも触れて おきたい。心と体が神と密接に結びついていたギリシャ神話を経て、神から切り離されることで心は形作られたが、次第に心と体もしばしば切り離されたものとして考えられてきた。
仏教もキリスト教、イスラム教も身体と心は別のものとして想定されており、その理由には死後の魂の行方 が前提にあった。宗教上の死生観はそれぞれあるものの、身体の死の先に続きがあるということは共通している。
宗教的な前提知識はあらゆる現代生活に浸透しており、我々は気付かぬ間に受容している。超自然的ヴィジョ ンはこれらの情報に基づいていることとして意識されているという考え方はあながち的外れでないように感じる。多くの古典芸術が宗教的モチーフを取り上げていることを考えれば、得体の知れないものを見てしまった時、 無意識のうちに神や魂を感覚してしまうことはごく自然な認知プロセスであると言える。特定の学習によって認知に差が生まれるということである。
神を感覚できるのは人間だけであり、超自然的なビジョンはカメラのような写真技術ではとらえられないも のである。ここにおいて生成画像と超自然的ヴィジョンは" 眼" から派生した技術でありながら、" 眼" からの 逸脱を経たイメージであるという点において共通の出自を持つ。
[3. 表象:心霊主義( スピリチュアリズム) と写真術]
超自然的ヴィジョンを画像に留める技術の一つとして心霊写真が存在する。心霊写真と聞くとテレビショーによくある、投稿されたアマチュア写真に幽霊が映り込んでおり、心霊写真鑑 定士がその幽霊の解説をして除霊したりする、といった映像を思い浮かべる人が多いかも知れない。幽霊はそこかしこに存在しており、写真によってその実在を垣間見ることができる、と。しかし、このテレビショーの スペクタクルは日本における心霊写真の再起的ブームであったといえる。
それというのも心霊写真の歴史は、そのまま写真の歴史を遡ることに相当する。写真に写ったものは現実に 存在するものであると認識してしまう誤認こそが、この心霊写真を作り出している( ここでは幽霊が存在して いるか否かの正否は問わない)。写真の技術が台頭してきた19 世紀の方法論では写真技術はアンコントローラブルなものであり、技術の代謝も早いものであった。1827 年のニエプスによる最初の写真( 図.3) から、 1839 年に実用的なダゲレオタイプが作り出されたのが始まりである。その後1865 年に最初の心霊写真が発見 されることになる。
写真とは初めから心霊的ものではなかったか。写真は写り込んだ被写体を光学的に映し出すが、光学的に作 り出された画像は正確に撮影から現像までが処方されていることが前提にあり、その工程の中で編集の余地は ある。あるいは技術的ないくつかの失敗によってレンズのフレアやゴースト( まさしく幽霊) がそこに映ることも多い。アメリカで活躍した心霊写真家のウィリアム・マムラー(William H. Mumler、1832 年 - 1884 年) は多重露光によって心霊写真を作り出す技術者であったが、当時は有名な心霊写真家であった。( 図.4) 19 世 紀後半のマムラーの心霊写真はビジネスとして成功し、詐称による裁判にまで発展するほどには一般的に浸透した技術であったのは確かである。当時はスピリチュアリズムによる交霊会も盛んに行われており、南北戦争 の影響下で死者を悼む人々にとって一つの指標になっていた。私たちは超自然的なものに意味を見出し、異な る世界の可能性について夢想することができる。これこそが虚構に生きるということである。
目に見えないものであったとしても写真に映る以上はもっともらしく存在するように見えるという写真の特 性、幻想を逆手にとることで心霊写真は正当な写真技術として偽装されていた。今後はAI がその偽装を踏まえ た創造に拍車をかけていく時代になるであろう。
生成系AI の倫理問題の一つに肖像権の問題がある。現実に存在する( もしくは存在していた) 人の顔写真を 学習させて生成した画像には、個人の肖像が直接的に転用される可能性がある。これはまさに、マムラーが故 人の肖像写真を利用して心霊写真を制作していたことに通じている。
AI においてハルシネーション(hallucination/ 幻覚) という現象がある。GPT モデル等のチャットボットが、 学習したデータとの整合性が取れない誤った情報を堂々と提示することを指しており、なぜ起こるかについて は様々な要因が想定されている。これは画像生成においても等しく起こっており、画像の学習過程で誤った学 習をしたモデルは指示対象に異形を見出し、実在しない( 自然模倣ではあり得ない) 不自然な画像を提示する。 これは前述したシミュラクラ現象と結果的にほとんど同義に見えるものの、決してAI が幻覚を見ているわけで はない。
AI が神を認識することはなく、アルゴリズムによって似通った画像のみが作られる。AI は対象を認識して 画像を生成してはいないのである。常に類推と計算によって擬似的なイメージが生成される。超越者は遥か昔にのみ存在しているため、過去に生み出された超越者たちのイメージはAI によって継ぎ接ぎ の" 新しい天使" へと組み替えられていくことになる。
[4. 寓意:新しい天使]
最後にドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンについて触れておきたい。「複製技術時代の芸術作品」におけるアウラ概念が有名であるが、ベンヤミンはオリジナルな存在にある権威的性質をアウラと呼び、複製技術によって作品の「アウラの凋落」が起きることに作品経験の可能性を見出していた。これは現代の超情報化社会によって、あらゆる点において達成されつつある。その実際的運用として期待されたNFT(non-fangible token) はある意味で大きな話題性を秘めていた。
それはさておき、私が着目したのはベンヤミンの未完の草稿である「歴史哲学テーゼ」の中の一節である。 18 の小論考の集まりから成るその中の一つにパウル・クレーの「新しい天使」という作品( 図.5) に触れた節 がある。以下に引用する。
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Ⅸ
わたしの翼は飛び立つ用意ができている。
わたしは帰れれば帰りたい。
たとえ生涯のあいだ、ここにいようと わたしは幸福になれぬだろう。
ゲルハルト・ショーレム「天使のあいさつ」
「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視している何ものかから、今にも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひかれて いて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。た ぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、 しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれは もう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。 その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、( この) 強風 なのだ。
ヴァルター・ベンヤミン「歴史哲学テーゼ( 歴史の概念について)」野村 修 訳
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歴史とはあらゆるものの積み重ねであり、その積み重ねから意図的に連関した繋がりを未来( である現在) から一方的に設定されることによって作り出されている。ここでベンヤミンのいうところの「進歩」は当時のファシズムの台頭と反ファシズム運動を前提としているのは確かであるものの、歴史における大きな括弧付きの「進 歩」であり、進歩史観への批判と捉えられる。完成されるまでの必要な事物以外のできごとを「瓦礫」のよう に捨て去り、忘却させる進歩史観を天使のアレゴリーによって描き出している。
さて、この一年はAI の民主化の年と言えるほどにAI が大いに話題になった。画像生成AI の分野では、実用段階でなかったクローズドなAI 開発の実情は昨年8 月のStability AI 社のstable diffusion の公開から様々 なAI サービス事業へと実用化と拡大がなされていった。すでに様々な活用がされ始めているAI が生成する成 果物は実のところ、用意されたデータセットの学習とプロンプト( 俗に呪文と呼ばれている) によって作り出される。データセットは常に過去にあった画像にテキストを合わせたものの集合であるが、ロラン・バルト言 うところの「それは=かつて=あった」という写真の本質解釈を想起させる。写真≒画像に写っている指向対 象をテキストによる記号化を施して整理してゆくことで、計算機械の範疇に置くことができる。果てしない数の「それは=かつて=あった」を積み重ねてゆくことで、AI の性質が決定づけられてゆく。
気づけば私はベンヤミンの「歴史の天使」を画像生成AI に重ね合わせて追慕していた。生成した画像から更 なるデータセットを生み出し「それは=かつて=あった」を軽々と逸脱してゆくであろうその様は、さながら 天に届くような廃墟の山に滞留しようとしながらも抗えず未来へと運ばれてゆく天使のように見える。
私は天使の自画像を手の中におさまる形で、取りこぼした何かを掬い取るように、祈るように、撮影することにした。
2023.10 香月恵介
図.3 「ル・グラの窓からの眺め(View from the Window at Le Gras)」(1827 年) ニセフォール・ニエプス
図.4 「エイブラハム・リンカーンの未亡人メアリー・トッド・リンカーンとリンカーン大統領の幽霊」(1869 年頃) ウィリアム・マムラー
図.5 「新しい天使(Angelus Novus)」(1920 年) パウル・クレー